「体育の日」の名称が無くなる?
秋の国会で「体育の日」の名称を「スポーツの日」に変更する改正案が提出され、
近い将来、10月の祝日の呼び名が変わる可能性が高い(28日・毎日新聞)
また「国体」の呼び名で親しまれた「全国体育大会」も
それに伴って「全国スポーツ大会」の名称に変わるという。
多くの人は「もう定着した名称だし、今更わざわざ変更しなくてもいい」とか
「体育もスポーツも同じでしょ」と思っただろう。
実際、私もそう思った。
ところが、スポーツ関係者や評論家たちにとっては、そう単純な問題ではないらしく
名称の変更は、悲願ともいえるものらしい。
少し、歴史をひも解くと
そもそも「体育」というのは「身体教育」という意味らしく
私たちが真っ先に連想するのは、学校の授業だ。
「青少年の身体を鍛えるため」であり、やらされてるイメージも強い。
また、体育という言葉が生まれたのは、モノの本によると明治初期の頃で
どうしても当時のお国の政策「富国強兵」を連想する方も少なくないのでは
ないか。
一方、「スポーツ」は「体育」よりもっと広い意味があり、
辞書によると「競争と遊戯性をもつ広義の運動競技の総称」とある。
スポーツ評論家のT氏によれば、
スポーツは、民主主義とも深い関係があるとのこと。
かつて暴力(戦争)で勝った者が支配者となる時代が続いたが
それが、議会や選挙などでリーダーや政策を決める、非暴力的で民主的な社会に
変わった。それにつれて、暴力的な格闘や争いも、非暴力的なスポーツに
変わっていったという歴史もあるのだ。
まあ簡単に言えば、人間には闘争本能があり、何かにつけ、人と争いたがる。
ほっとけば決闘や戦争になりかねないところを、スポーツというルールに基づいた中で
平和的に、非暴力で(つまり大怪をしない範囲で)、闘争本能を満足できるのが
スポーツなのだ。
またスポーツは単に身体を鍛えるだけでなく、バカじゃできないから知的能力も養う。
さらにチームワークや、スポーツマンシップも不可欠だから、
人間としての徳も積むことができる。
スポーツは、人間が考え出した、素晴らしい文化なのである。
今を生きている我々にとっては、「体育の日」でいいじゃんと言いたくなるが、
100年先、200年先の日本のことを考えれば、
やはり「体育の日」という名称はやめて
「スポーツの日」に改名しておいた方が、いいのかもしれない