ファミリー・トピックス

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「こどもの日」に思う

5月5日の、こどもの日。

 東京新聞のコラムに、映画『フレンチ・コネクション』や『スケアクロウ』で

有名な俳優、ジーン・ハックマンの子どもの頃の話が出ていた。

 彼が13歳の時、父親が突然、家を出ていった。

 ハックマンはインタビューでこう語っている。

「通りで友達と遊んでたら、父親が車で通りかかった。

 こっちに向かって何か手を振っているようだ。

 父親はそのまま二度と帰ってこなかった」と語った。

 そして、涙で声を詰まらせた。

そのあと質問者に「失礼、たった65年前のことだったので…」と詫びた。

ハックマンにとって、父が失踪したことは

65年の月日が流れても、忘れることができず

まるで昨日の出来事のように、鮮明に胸に刻まれていたのだ。

 

日本でも、子どもに対する虐待やいじめは後を絶たず、

子どもが犠牲になる事件も少なくない。

子どもの時に受けた傷は、大人になっても癒えず

もしかしたら、この子の将来を左右するかもしれないほど

重大な疾患となり得るのだ。

どうか、すべての親は、65年後の我が子が、

親のことで苦しまないように、肝に銘じてほしいと願う。

 

オシドリ夫婦の実態は?…

仲の良い夫婦のことを、よく「オシドリ夫婦」と言うが

生物学者によると、実際のオシドリのつがいは

それほど仲が良いワケではないそうだ(きのう・朝日新聞福岡伸一動的平衡」)

 

オシドリのオスは、たえずメスに寄り添って、他のオスや天敵が近づこうものなら

オスはまさに命懸けでメスを守る…

これは間違ってない。ただ、その夫婦付随の姿を見せるのは、メスが卵を産むまでで

産んだ後は、オスは卵を温めることもないし、ヒナの面倒を見ることもない。

それどころか、出産後のメスにもはや興味を示さなくなり、

他のメスを追いかけ始める。

一方、メスの方も子育てが終わると、他のオスとパートナーを組むそうだ。

まさにオシドリ夫婦は、つかの間の愛であり、

もっと極論すれば、”カラダだけの関係”とも言える。

 

私が子どもの頃(おそらく70年代…)、オシドリは生涯つがいで過ごし

どちらかが死ぬと、残された相方は、その亡き骸からずっと離れない…

と聞かされて、子供心に感動したものだ。

 

オシドリ夫婦」というワードは、今もテレビなどでよく使われている。

 この言葉がいつ頃、生まれたかは知らないが、

 オシドリの実態が明らかになった以上、あまり使わない方が良いのでは

ないかと、私は思う。

やはり実態にそぐわない言葉は、歓迎できない。

まあ、オシドリのつがいの実態が広く認知されるようになれば、

オシドリ夫婦」は 早晩、廃れていくような気もするが…

人生に勝ち負けなどない

読売オンラインに『発言小町』という一般からの投稿コーナーがあり

いろんな御意見が出ていて、結構おもしろい。

5月2日に、国家公務員の男性(おそらく30歳前後か)からの投書があって

要約すると…

 『大学時代に交際していた女性がいましたが、卒業後に別れました。

  その後、しばらくは彼女に未練がありましたが、

 2年前、私は同じ職場の女性と結婚しました。

 妻は自立した尊敬できる人です。

  ところが、最近、元カノの近況が耳に入ってきて、

 彼女は医者と結婚し、子宝にも恵まれている…とのこと。

  なんでしょうか、この敗北感は。

 彼女の近況を知ってから、私はモヤモヤ感が消えません』

 という内容。

 

そして、この投書に対するスレもたくさん来ていて

 辛らつで、ズバッと鋭い指摘もあった。例えば…

 『そうです、あなたは負けたのです。

  元カノは、あなたと医者の男を天秤にかけて、医者を選んだ(1敗目)

  そして、あなたは、奥様と元カノを天秤にかけて、

     奥様の方が負けていると思っている(これで2敗目)

  でも、その思考回路って、ちょっと女性的だと思います。

  そんなんだから、元カノも、あなたを選ばなかったんだと思いますよ」(要約)

 

 なんか身も蓋もない御意見だが、フラれた経験が多々ある筆者には

 この投書の男性の気持ちが痛いほどわかる。

 私の意見を述べると、いろんな経験をしてきて

50歳を過ぎた今、思うのは「人生に勝ち負けなどない」ということ。

みんな人それぞれ…生まれも育ちも違うし、持って生まれた能力も

与えられた運命も、背負ってる境遇が違うのだから

自分の人生を、他人と比較できることなどできないし、意味がないのです。

自分が選択してきた道がすべてであり、それがベストであり

それ以外に道はなかったのです。

たとえフラれたとしても、元カノは自分にとってベストではなく

奥様がベストパートナーだったのです。

この男性も、いつか自分が選んだ奥様がナンバー1で、

元カノより、はるかに良い女だと思える日が来るはずです。

そして、一生懸命に仕事して、国家公務員としての自分に誇りをもつこと。

別に、医者が公務員より優れているわけじゃないし、

この男性が、医者になりたかったワケじゃないでしょうから。

父と娘

 

読売新聞の「人生案内」は、様々な年代の悩みごとが紹介されていて

 今の時代を生きる人たちの人生模様を浮き彫りにしてくれる。

 昨日は、50代の主婦からの相談だった。内容を要約すると…

 『80代半ばの父には、今まで二世帯住宅を建ててもらったり、

 2人の息子たちの面倒を見てもらったり、生活全般にわたって

 助けてもらってきました。

 時には喧嘩もしたけど、一緒に旅行に行ったり、食事を共にしながら笑い合ったり、

 ほとんどが楽しいこと思い出ばかりです。

  その父が高齢になって、突然倒れて、病院に運び込まれたりするようなことがあり

  そのたびに私は押しつぶされそうになります。今は施設に入ってますが、

  父にその時が来たら、私はボロボロになって壊れてしまいそうで…

  どうか、今後の心の持ちようを助言して下さい』(東京・O子さん)

 

さぞ、素敵なお父さんなのでしょう

記事の文面から、父と娘のこまやかな情愛が伝わってきて、心が震えた。

 前に、20歳の家出娘のことを書いたが、彼女は物心ついた時には父は家におらず、

 「今さら父に会いたいと思わない」と語っていた。

 父と娘の関係が疎遠になりがちな今日にあって

まずO子さんは、心から慕うことができる父親がいたことを

幸せに思わなければならないと思う

お父さんが、長きにわたり、そばにいて自分を支えてくれたことを

幸せに思うべきでしょう。

彼女が辛く、悲しいのは、愛情が深いゆえです。

「心から愛する人と生活を共にし、生きていく」

それが、幸せだと私は考えている。

その愛する人がこの世を去ろうとしている。

悲しいのは当然です。

今まで自分を支えてくれた父親に感謝し、

そして、残された時間を、父親のためにできることをしてあげて

 悔いを残さないようにすることだと思う。

 

崖っぷちの2時間ドラマ

クライマックスは、必ず登場人物が一同に集まって断崖絶壁に立つ。

そして、主人公が事件の謎解きをし、真犯人が明らかになり、一件落着する。

これが2時間ドラマの定番だ。

だが、その2時間ドラマ自体が今、崖っぷちに立たされている。

 

視聴率が軒並み10%を割り込み

テレビ各局は、2時間ドラマを次々と打ち切っているのだ。

4月30日・東京新聞

 今年、もっとも歴史があり、2時間ドラマ最後の砦でもあった

テレビ朝日の「土曜ワイド劇場」も姿を消した。

 

視聴率低迷の要因は何か?

東京新聞によると、ドラマをよく見る若い年代層に2時間ドラマの視聴習慣が

ないことが1つ。

それと、温泉女将や旅行記者、はたまたお坊さんなどの素人が

名探偵顔負けの活躍をして事件を解決するという設定が、

個人情報がうるさく言われる今の時代において

あまりにリアリティを欠いている…ことなどを理由に挙げている。

 

では、どうすれば2時間ドラマは復活するか?

記事にもあったが、やはり新しいスターの登場と

ノンフィクションなど、リアリティのある話にシフトして、

“新しい何か”を、創造していくしかないとダメなのだろうと思う

「体育の日」の名称が無くなる?

秋の国会で「体育の日」の名称を「スポーツの日」に変更する改正案が提出され、

近い将来、10月の祝日の呼び名が変わる可能性が高い(28日・毎日新聞

また「国体」の呼び名で親しまれた「全国体育大会」も

それに伴って「全国スポーツ大会」の名称に変わるという。

 

多くの人は「もう定着した名称だし、今更わざわざ変更しなくてもいい」とか

「体育もスポーツも同じでしょ」と思っただろう。

実際、私もそう思った。

ところが、スポーツ関係者や評論家たちにとっては、そう単純な問題ではないらしく

名称の変更は、悲願ともいえるものらしい。

 

少し、歴史をひも解くと

そもそも「体育」というのは「身体教育」という意味らしく

私たちが真っ先に連想するのは、学校の授業だ。

「青少年の身体を鍛えるため」であり、やらされてるイメージも強い。

また、体育という言葉が生まれたのは、モノの本によると明治初期の頃で

どうしても当時のお国の政策「富国強兵」を連想する方も少なくないのでは

ないか。

 

一方、「スポーツ」は「体育」よりもっと広い意味があり、

辞書によると「競争と遊戯性をもつ広義の運動競技の総称」とある。

スポーツ評論家のT氏によれば、

スポーツは、民主主義とも深い関係があるとのこと。

かつて暴力(戦争)で勝った者が支配者となる時代が続いたが

それが、議会や選挙などでリーダーや政策を決める、非暴力的で民主的な社会に

変わった。それにつれて、暴力的な格闘や争いも、非暴力的なスポーツに

変わっていったという歴史もあるのだ。

まあ簡単に言えば、人間には闘争本能があり、何かにつけ、人と争いたがる。

ほっとけば決闘や戦争になりかねないところを、スポーツというルールに基づいた中で

平和的に、非暴力で(つまり大怪をしない範囲で)、闘争本能を満足できるのが

スポーツなのだ。

またスポーツは単に身体を鍛えるだけでなく、バカじゃできないから知的能力も養う。

さらにチームワークや、スポーツマンシップも不可欠だから、

人間としての徳も積むことができる。

スポーツは、人間が考え出した、素晴らしい文化なのである。

 

 

今を生きている我々にとっては、「体育の日」でいいじゃんと言いたくなるが、

100年先、200年先の日本のことを考えれば、

やはり「体育の日」という名称はやめて

「スポーツの日」に改名しておいた方が、いいのかもしれない

 

二度目の19才

昨日の毎日新聞(夕刊)に、名古屋に住む66歳のクリスチャン女性・Aさんが

東京拘置所に服役している死刑囚(42歳・男性)と

交流を続けているという記事が出ていた。

当時19才だった彼は、1994年、仲間数人と、通りがかりの男性にインネンをつけ

暴行後、殺害をした(大阪・愛知連続リンチ殺人事件)

彼は、逮捕から4年後の98年、突然「聖書を学びたい」と言い

Aさんが手を挙げて、それから今日まで、交流を続けている。

記事によれば、彼は、生まれてすぐに実母と死別している。

その後、家に来た養母から、煙草の火を押し付けられるなどのヒドい虐待を受けた。

こうした彼の生まれ育った境遇が、少なからず犯行に影響してるのではないだろうか

 

Aさんは、最初に面会した時、彼にこう言われたという。

「自分は簡単には変われない。今が0才だと思ってほしい」

この言葉は、彼が、自分のことを冷静に見ていて、

自分自身をよく分かっていることを示していると思う。

『罪を憎んで、人を憎まず』とよく言う。

彼のやったことは絶対に許されるものではないが

その犯行の根底にあるものは、彼の『無知』ではなかったか。

「お前は根っからの性善説の信奉者で、犯罪者に対する認識が甘い」と

言われるかもしれないが、あえて私は思いたい。

彼が、生まれつきの「犯罪者」ではない。

だから、きちんとした親がいて、愛情をもって育てていたら、

彼は、殺人など犯さなかった。

むしろ、彼の周りにいた大人、特に父親の責任は重い。

母親がいなくても、父親がもっと愛情を注いであげていれば

彼は死刑囚などにならずに済んだはずだ。それが、悔やまれてならない。

今、二度目の“19才” になった彼が、どんな人間に育っているのか

記事は伝えていないが、彼はAさんのことを「おかん」と呼んでいると

書いてあった。